浄土真宗本願寺派 栢原山 龍仙寺の紹介
龍仙寺
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龍仙寺の縁起

 十五世紀後期(明応年中1492〜1501)、現在地の東北、江本寺(石井城二丁目)に蓮華寺(瀬野川町畑賀)の末寺として僧深澄によって建立された。当初は真言宗だったが、大永三年(1523)に浄土真宗に改宗。
 第八代住職釈了安が、現在地に移転。寛永十三(1636)年五月十八日付けで本山本願寺より阿弥陀如来木像が下附、正式に本願寺末寺として寺号認許となった。
 現在の本堂は十九世紀中頃の建立。
 江戸時代後期、第十四代住職釈大乗は学芸に通じ、頼春水・頼杏坪・頼山陽・菅茶山など多くの文人が来遊している。

龍仙寺の紹介(YouTube)



名勝栢原山池(谷文晁画)

谷文晁画

 第十四代釈大乗が、縮景園を改修した京都の庭師清水七郎衛門を招いて境内に名勝栢原山池を築いたが、天保七年(1836年)の大洪水で破壊。


「龍宮海蔵」額

龍宮海蔵

 この額字は文化6年(1809)勘解由(かげゆ)長官 菅原長親書となっています。
 海蔵とは「仏の教え」を意味し、龍樹菩薩が龍宮から持ち帰った仏の教えを表現したもので、それが時代とともにお経蔵のことを龍宮海蔵と呼ぶようになりました。
 宮島にも神仏習合によって龍宮海蔵と呼ばれるお経蔵がありましたが明治維新後、廃仏毀釈によって破壊されたそうです。
 この書が書かれた文化6年(1809)頃には龍仙寺第14世釋大乗が頼 春水・頼 山陽・菅 茶山や芸藩通史を編纂した頼 杏坪(春水の弟、山陽の叔父)などの文人と深い交流がありました。
 その10年前の寛政11年(1799年)、浅野藩では第7代浅野重晟が隠居して浅野 斉賢(あさの なりかた)が浅野藩第8代を継承しています。

 この書を書いた菅原長親は京都の人で、仁孝天皇の即位に当たり、年号を「文化」から「文政」と定めた公家学者でもあります。
 勘解由長官とは国司が代わった時、中央行政と地方行政を監査・監督し、財政上の書類を審査する重要な任務を遂行していました。
 寛政11年(1799年)に第7代浅野重晟から8代斉賢に家督が譲られた浅野藩の財務審査のため京都から派遣されてきた菅原長親が頼一族や菅茶山などの文人とともに龍仙寺に来遊し、この書を残したものと思われます。
 龍仙寺そのものがお経の蔵のような存在という意味で「龍宮海蔵」と書したものではないかと推測されます。


龍仙寺 本堂

本堂

 明治六年に府中小学校の前身である開明舎が龍仙寺本堂で創立されました。当時の児童は二十数名。
 また龍仙寺は、府中町のお寺として五百年にわたって府中の精神文化を担ってきました。現在は、日曜学校の幼少年から高齢者に至る門信徒の聞法の道場として、また、お葬式や御法事で多くの人々の参詣を得るなど、地域の重要な宗教施設となっています。



阿弥陀如来像

阿弥陀如来像

 門徒会館「獲信の間」の御本尊・阿弥陀如来像は江里康慧仏師によって執刀され、載金(きりがね)は人間国宝だった江里佐代子さんによって施されています。体内には門徒会館建設の趣旨を納めています。
阿弥陀如来像

龍仙寺 門徒会館

龍仙寺門徒会館・庫裏

 近年の急激に変化する社会情勢に対応し、新しい時代の聞法・伝道に資するため「門信徒の活動の拠点となるお寺を」との願いのもとに、門徒会館・庫裏が平成十六年三月に建立されました。門徒会館は 葬式・法事 の法要儀式をはじめ研修や懇親の場として頻繁に利用されています。府中町の『心の道場』としてお寺の機能を充実し、地域社会に貢献できるよう、寺院活動の活性化に努めています。



龍仙寺 勧孝悌碑

勧孝悌碑

 浅野藩より親孝行者として褒美をもらった府中村の男女三人(源三郎、六兵衛妻あさ、庄松)の徳を顕彰した石碑です。
 十九世紀初め頃に建碑されました。



共命の松

「共命の松」(ぐみょうのまつ)

 大永元年(1521年)頃、僧深澄によって龍仙寺が建立されてより、門信徒と共に五百年にわたって龍仙寺を護ってきた松であり、またお浄土にすむ鳥で頭が二つあって身体は一つしかないという共命鳥(ぐみょうちょう)が羽ばたいている姿に似ていることから「共命の松」と呼ぶようになりました。
樹木鑑定書  共命鳥は、お互いを尊重し合い、譲り合うことによってこそ共に生きてゆけるという阿弥陀如来の教えを表しています。
 また、平成三年枯死の兆候が表れたが、大阪の樹医・山野忠彦氏の施術によって生き還ったことから「平成還り松」とも言います。
 樹医・山野氏の鑑定では、盆栽として百年以上、地に下ろされてから五、六百年と考えられ、樹齢は六〜七百年と推定されます。



親鸞聖人遠流の像

親鸞聖人遠流の像

 このお姿は、親鸞聖人が1207年の念仏禁止令により越後の国(新潟県上越市)に流罪になり、居多ヶ浜に上陸されたときのお姿です。
 日本海の荒波と北風に向かって力強くお立ちになった聖人は、その後この法難にもめげず「愚禿釋親鸞」と名告り、お念仏のみ教えを弘めていかれました。
 この御像をお迎えして府中の町にも、お念仏のみ教えが広く伝わって「安穏な町作り」に貢献できるよう願って建立されました。「共命の松」とともにお寺の大切な宝です。



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