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歎異抄(たんにしょう) 第五条

歎異抄 第五条

親鸞は父母の孝養のためとて、
一返にても念仏申したること、いまだ候はず。
そのゆゑは、一切の有情はみなもつて
世々生々の父母・兄弟なり。
いづれもいづれも、
この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。
わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、
念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。
ただ自力をすてて、
いそぎ浄土のさとりをひらきなば、
六道・四生のあひだ、
いづれの業苦にしづめりとも、
神通方便をもつて、
まづ有縁を度すべきなりと云々。

(歎異抄 第五条)


 宗教といえば、人生の吉凶禍福を神仏の力によって解決しようとしたり、死者の霊を弔うことのように考えている人が多いのが現状です。  しかし、基本的に仏教は違います。人生苦の解決が仏教です。苦悩の解決といっても健康や冨など個人的な利益を神仏の力によって得ようとするものではありません。

 現世の災いの原因を死者の霊がもたらすものと考えて死者の霊を追善供養し、災いから逃れようとするもの。あるいは神仏の加護によって現世の利益を得ようとするものをことごとく否定されたのがお釈迦さまであり、親鸞聖人です。

 人生の吉凶禍福は己が業によるものであり、神仏に頼るものではありません。自業自得と示されるとおり、神仏の力で人生の幸不幸が決まるものでなく、自分自身の業(責任)であると考えるのが仏教です。

 今、よく言われる自己責任です。死後においても同じことです。自分が迷いを重ねて行くのは後へ残ったものが追善供養してくれるかどうかではなく、自分自身が真実信心を得ているか否かということが重要です。

 だから、親鸞聖人は先立った両親のためにお念仏申したということは一度もないと言い切られています。

 お念仏は私が阿弥陀如来のお慈悲に包まれて生かされていることを喜ぶものであり、亡くなった人のために称えるものではないということです。

 親を救う力どころか我が身の往生さえおぼつかないものがいくら親のためだといってお念仏してみても意味のないことだと言われるのです。そもそもお念仏は迷える私を救わんとして阿弥陀如来が私に働きかけておられるものであり、私が頂くものなのです。他者のために利用するものではありません。

 先立った親がもし、迷いの淵に沈んでいたとしても私にはそれを救い力はありません。迷える者を救うことができるのは仏さまだけです。

第4条に「いかにいとほし不便(ふびん)とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」とお示しになっているように凡夫である私の力では救うことは出来ません。

 いくら我が親であってもまず、私が阿弥陀如来の本願力によって往生成仏した後に仏の力を持って救ってゆくんだと言われているのです。

 ここで大事なことは、他者の救済の為には自分自身にその力がなければならないということです。先ず我が身が迷いの凡夫であることの自覚の上から後生の一大事の解決ができなければならないということです。

 そして、信心定まり我が身の往生が定まる時、我が親族だけの救いでなく、肉親の情を超え、あるいはまた敵味方の境を越えて迷えるすべての人々を救う道が開けてくるのです。

「一切の有情はみなもって
世々生々(せせしょうじょう)の父母・兄弟なり。
いづれもいづれも、
この順次生に仏になりてたすけ候べきなり」

 現世の親だけでなく、生きとしけるもの皆すべてが父母兄弟のような間柄であり、みんなを助けねばならないという広く大きな心が醸成されてゆきます。

 しかしまた

「いそぎ浄土のさとりをひらきなば、
六道・四生のあひだ、
いづれの業苦にしづめりとも、
神通方便をもって、
まづ、有縁を度すべきなり」

と、すべての苦悩に沈む者を救済するのではあるけれどもまず、ご縁の深い人から救うべきであるとも語られています。

「歎異抄 第四条」 | 「歎異抄 第六条」(執筆中)



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